2019年御翼9月号その2

                           

戦艦「大和(やまと)」による水上特攻を中止した伊藤整一司令長官

  世界最大の戦艦「大和」は、一九四五年(昭和二十)年四月七日、沖縄嘉手納(かでな)沖のアメリカ部隊に対して特攻作戦を展開し、米軍機により撃沈された。このとき日本海軍側は、「大和」以下10隻の艦艇からなる第二艦隊を出撃させた。乗組員は総勢七千名の将兵である。この作戦の指揮をとったのが、第二艦隊司令長官・伊藤整一中将(海軍兵学校39期)であった。伊藤は、喜怒哀楽を表にあらわすことがなく、柔和、清廉、寡黙な人柄で、ごく目立たない人物であった。昭和二年(一九二七)、少佐でアメリカに駐在、帰国後、伊藤は海軍兵学校の教官兼生徒隊監事を務めた。アメリカを見聞してきた伊藤の経験が、教育に役立つという上層部の判断だった。伊藤は「不言実行」を通し、言葉でなく行動で範(はん)を示したという。時に40歳の伊藤が褌(ふんどし)一本で、生徒たちとともに遠泳も行なった。
 四月六日、第二艦隊は沖縄を目指して出撃するが、米軍の航空攻撃を受け、「大和」は沈没が避けられない状況となった。すると、伊藤は特攻作戦の中止と、駆逐艦「冬月」を「大和」に横付けし、乗組員救助を命じた。そして、「皆、ご苦労様でした。残念だったね」と言い残し、長官室に姿を消した。「大和」の有賀艦長も退艦を拒否、二人とも「大和」と共に沈んでいった。
 この作戦の目的は、一億総特攻の先駆けになることだったので、伊藤長官が作戦の中止を命令しなければ、七千名の将兵全員が戦死していたはずである。しかし、伊藤の独断で特攻作戦は中止され、それにより、約半数の者が生還できた(「大和」の乗組員では三千五六人死亡、二七六人生還)。海軍上層部からの命令を、現場の指揮官が独断で中断することは、異例であった。伊藤は家庭を重んじ、電車に乗るときは妻を先に乗せ、娘たちを「さん」付けで呼んでいた。そして、妻に宛てた遺書にこうあった。「親愛なるお前様に後事を託して何事の憂いなきは此の上もなき仕合せと衷心より感謝致し候。いとしき最愛のちとせ殿」(残された夫人も間もなく病に倒れ、一年半後には娘三人を残し夫の後を追う。長男・叡(あきら)は海軍兵学校72期、零戦に乗り、特攻で戦死。)
 中田整一『四月七日の桜 戦艦「大和」と伊藤整一の最期』(講談社)にはこう記されている。「(戦前、駐在していた)アメリカからは、幼い長女の純子に『青い目の人形』やキューピー、洒落た子供服などを送ってきた。そして帰国のときには讃美歌集も持ち帰った。クリスチャンにはならずとも日曜日には教会に通って、ひそかに欧米人の精神文化を研究していたのかもしれない」と(p.91)。しかし、讃美歌を大切に持ち帰っているのであるから、キリストへの信仰を理解し、言葉でクリスチャンだとは言わずとも、黙ってイエス様の教えに従おうとしていた。だからこそ、「作戦中止」の命令を出したと考えることもできる。そのようにして、日本を守ろうとした軍人がいたことを忘れてはならない。

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